八丁味噌は、岡崎城から西へ八丁(約870m)の距離にある岡崎市八帖町(旧・八丁村)で、江戸時代初期より、旧東海道を挟んで向かい合った2軒の老舗が伝統製法で造り続けている豆みその銘柄。
昼食を済ませて受付で見学を申し出ると2時から見学可能で、しばらく待つことになった。
明治40年に味噌蔵として建てられた蔵の横を見学者がいく。
昔の味噌造りの様子が再現されている。
桶というべきか樽というべきか、この中に大豆6tが仕込まれ、重石の石は3tある。
重石の石は隣を流れる矢作川から持ってきたものだが、現在は採石する事はご法度なので、昔採石したものを使用しているそうな。
熱心に案内人の説明を聞きながらうす暗い蔵の中を進む。
昭和2年建造の趣のある事務所。
見学の最後に八丁味噌の味噌汁と田楽、それにお土産のお持ち帰り用八丁味噌のパックを頂いた。
むろん見学は無料。
文字通り“おいしい”見学であった。
野遊人
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蜆塚公園内に浜松市博物館がある。
入り口にはとてつもなく大きな銅鐸が・・・
正面に回ってみると
浜松市博物館の広告塔になっている。
この博物館に来ようと思ったきっかけは、前日放映された「英雄たちの選択」という番組で、三方ヶ原の戦いを観て、有名な家康のしかみ像が展示してあると聞いたからだ。
三方ヶ原の戦いは、浜松を素通りして、三方ヶ原台地に兵を進めた武田軍の後を追い、返り討ちにあい、徳川家康は大敗北を喫した。
この戦いの敗北で家康は苦渋の表情の肖像画「しかみ像」を描かせ、血気にはやって武田軍の誘いに乗り、多くの将兵を失った自分に対する戒めとして描かせ、この後に熱くなった自分を抑えるために絵を見て自重していたという逸話が残っている。
徳川家康公顕彰四百年記念事業の一環として博物館は立体像を復元した。
古代から近世まで、浜松周辺で発掘されたものが展示してある。
これはナウマンゾウの立体模型。
銅鐸の数多く出土している。
古墳の中に埋設された古銭
入場料300円、博物館のサイトをプリントしていくと2割引きと、大変お値打ちで見ごたえ十分だった。
野遊人
入り口にはとてつもなく大きな銅鐸が・・・
正面に回ってみると
浜松市博物館の広告塔になっている。
この博物館に来ようと思ったきっかけは、前日放映された「英雄たちの選択」という番組で、三方ヶ原の戦いを観て、有名な家康のしかみ像が展示してあると聞いたからだ。
三方ヶ原の戦いは、浜松を素通りして、三方ヶ原台地に兵を進めた武田軍の後を追い、返り討ちにあい、徳川家康は大敗北を喫した。
この戦いの敗北で家康は苦渋の表情の肖像画「しかみ像」を描かせ、血気にはやって武田軍の誘いに乗り、多くの将兵を失った自分に対する戒めとして描かせ、この後に熱くなった自分を抑えるために絵を見て自重していたという逸話が残っている。
徳川家康公顕彰四百年記念事業の一環として博物館は立体像を復元した。
古代から近世まで、浜松周辺で発掘されたものが展示してある。
これはナウマンゾウの立体模型。
銅鐸の数多く出土している。
古墳の中に埋設された古銭
入場料300円、博物館のサイトをプリントしていくと2割引きと、大変お値打ちで見ごたえ十分だった。
野遊人
浜名湖と水路でつながっている佐鳴湖は、ボート(レガッタ)の練習、湖畔はジョギングコースとして、浜松市民に親しまれている。
ボクは若い頃、ウナギ釣りによく訪れたものだ。
佐鳴湖の近くに、国指定の蜆塚遺跡を中心とする蜆塚公園がある。
蜆塚遺跡は縄文時代後・晩期(3000~4000年前)のムラの跡で、広場を中心に住居、墓、貝塚が4か所発見されている。
貝塚は雨などで洗い流されないようガラスで保護されている。
※ガラスにカメラを構えるボクのてが写っているのが少々キモイ)

佐鳴湖は汽水湖であるため、貝の多くはシジミだが、ハマグリやアサリなども見られ、鹿の骨や骨でできた釣針も見られる。
公園内には縄文時代の復元家屋がいくつかある。
家屋の中はこんな感じ
この家屋よりもう少し時代が進んだ家屋であろうか、デザインが複雑になっている。
温暖な気候と湖に近いことから、ムラが形成されたのであろう。
公園内には博物館もあり、そこも見学したので明日ブログに記載する。
野遊人
ボクは若い頃、ウナギ釣りによく訪れたものだ。
佐鳴湖の近くに、国指定の蜆塚遺跡を中心とする蜆塚公園がある。
蜆塚遺跡は縄文時代後・晩期(3000~4000年前)のムラの跡で、広場を中心に住居、墓、貝塚が4か所発見されている。
貝塚は雨などで洗い流されないようガラスで保護されている。
※ガラスにカメラを構えるボクのてが写っているのが少々キモイ)
佐鳴湖は汽水湖であるため、貝の多くはシジミだが、ハマグリやアサリなども見られ、鹿の骨や骨でできた釣針も見られる。
公園内には縄文時代の復元家屋がいくつかある。
家屋の中はこんな感じ
この家屋よりもう少し時代が進んだ家屋であろうか、デザインが複雑になっている。
温暖な気候と湖に近いことから、ムラが形成されたのであろう。
公園内には博物館もあり、そこも見学したので明日ブログに記載する。
野遊人
大東温泉で湯につかった跡、前回十分に見学できなかった横須賀城(別称松尾城)跡を訪れた。
駐車場には豊橋ナンバーのハーレーがあり、その横にボクのバイクを駐めた。
横須賀城がある地域は、徳川と武田が激しい攻防戦を繰り広げたところで、天正6年(1758年)徳川家康は家臣の大須賀康高に命じて高天神城攻略の拠点として横須賀城を築かせた。
駐車場から北の丸への道には多くの梅が咲いている。
北の丸跡では、地元のお年寄りがマレットゴルフを楽しんでいるが、場内で出会った方は「こんなところにゲートボール場を作って!と怒っていた。
北の丸跡を先に進むと松尾山という小高い丘がある。
築城当時はここが本丸ではないかと推察されている。
場内の俯瞰図
北の丸から三丸へ進むと大きな石垣が現れる。
「玉石積み」とよばれる、丸い瓦の石を積みあげた石垣が特徴の一つ。
石垣を南側から眺めると、相当大きな城であることがうかがえる。
横須賀城は、平山城として、山城から平城に移る中間期の特徴を持っているそうな。
なかなか見ごたえがある城跡だ。
駐車場でハーレーの持ち主と出会い話を伺うと、豊川のライダーで、寒さが緩んだので久しぶりにバイクで来、この後、高天神城に行くそうだ。
野遊人
駐車場には豊橋ナンバーのハーレーがあり、その横にボクのバイクを駐めた。
横須賀城がある地域は、徳川と武田が激しい攻防戦を繰り広げたところで、天正6年(1758年)徳川家康は家臣の大須賀康高に命じて高天神城攻略の拠点として横須賀城を築かせた。
駐車場から北の丸への道には多くの梅が咲いている。
北の丸跡では、地元のお年寄りがマレットゴルフを楽しんでいるが、場内で出会った方は「こんなところにゲートボール場を作って!と怒っていた。
北の丸跡を先に進むと松尾山という小高い丘がある。
築城当時はここが本丸ではないかと推察されている。
場内の俯瞰図
北の丸から三丸へ進むと大きな石垣が現れる。
「玉石積み」とよばれる、丸い瓦の石を積みあげた石垣が特徴の一つ。
石垣を南側から眺めると、相当大きな城であることがうかがえる。
横須賀城は、平山城として、山城から平城に移る中間期の特徴を持っているそうな。
なかなか見ごたえがある城跡だ。
駐車場でハーレーの持ち主と出会い話を伺うと、豊川のライダーで、寒さが緩んだので久しぶりにバイクで来、この後、高天神城に行くそうだ。
野遊人