中西孝樹著「オサムイズム 〝小さな巨人″スズキの経営」を読もうと思ったのは、世界的企業(鈴木社長自身は中小企業と謙遜するが)ともいえるスズキ自動車が、長い間社長の鈴木修のワンマン経営が続き、このままで大丈夫なのだろうかという疑問があったからだ。
昭和5年生まれの鈴木は、スズキの2代目社長鈴木俊三の婿養子となり、昭和53年社長に就任し、以後37年間にわたり社長の椅子に座っている。
次期社長ともくろんでいた、娘婿の小野浩孝をすい臓がんで失い、社長を継続しなければならない事情は知っていたが、それ以外にも排気ガス規制の遅れ、アメリカとインドへの進出、GMとの提携解消、VWによる会社乗っ取り工作との抗争など、辣腕を振るわねばならない問題が生じ、社長を引退する機会を失っていたのが理解できた。
VWとの抗争に勝利し、集団指導体制が確立し2年前ようやく長男の俊浩に社長を禅譲し、社長の座を降りることができた。
鈴木修は単なるワンマン社長ではなく、将来を見据えていた経営者であることが分かった。
但し、一人では会社全体を見通すことができず、その結果二輪車の開発が遅れ、ホンダとヤマハに大きな後れを作ってしまったことは「私の失敗」と率直に認めている。
※二輪車の出荷台数はホンダ1759万台、ヤマハ580万台に対し、スズキは176万台。
野遊人
昭和5年生まれの鈴木は、スズキの2代目社長鈴木俊三の婿養子となり、昭和53年社長に就任し、以後37年間にわたり社長の椅子に座っている。
次期社長ともくろんでいた、娘婿の小野浩孝をすい臓がんで失い、社長を継続しなければならない事情は知っていたが、それ以外にも排気ガス規制の遅れ、アメリカとインドへの進出、GMとの提携解消、VWによる会社乗っ取り工作との抗争など、辣腕を振るわねばならない問題が生じ、社長を引退する機会を失っていたのが理解できた。
VWとの抗争に勝利し、集団指導体制が確立し2年前ようやく長男の俊浩に社長を禅譲し、社長の座を降りることができた。
鈴木修は単なるワンマン社長ではなく、将来を見据えていた経営者であることが分かった。
但し、一人では会社全体を見通すことができず、その結果二輪車の開発が遅れ、ホンダとヤマハに大きな後れを作ってしまったことは「私の失敗」と率直に認めている。
※二輪車の出荷台数はホンダ1759万台、ヤマハ580万台に対し、スズキは176万台。
野遊人
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