終戦から3年、昭和3年生まれの義母は、10代で両親を失った義父のところに嫁いできた。
義父には3人の妹がいて、妹の母親役をも務めた。
結婚当初は小さな田畑を耕して生計を維持していたが、やがて近所の紡績会社へ勤めに出るようになった。
勤めに出ても、日の明るいうちは田畑に出、夜は3人の子供たちの下着や洋服を作るなど、ひと時も休まない義母であった。
娘が嫁ぐとき花嫁道具にと、将来の夫となる人の着物も縫っていた。
義兄が寿司屋を開業してからは厨房に入り、ご飯炊きや食器洗いなどの裏方を担い、80歳まで家業を支えてきた。
60年以上働き続けてきた義母の体は悲鳴を上げ始め、80歳から床に臥すようになった。
18日未明、84歳の生涯を閉じた。
何事も控えめでグチひとつこぼさず、ひたすら家族のために生涯をささげた姿は、古き良き日本の女性そのものであった
。
お義母さん、おやすみなさい。
野遊人
義父には3人の妹がいて、妹の母親役をも務めた。
結婚当初は小さな田畑を耕して生計を維持していたが、やがて近所の紡績会社へ勤めに出るようになった。
勤めに出ても、日の明るいうちは田畑に出、夜は3人の子供たちの下着や洋服を作るなど、ひと時も休まない義母であった。
娘が嫁ぐとき花嫁道具にと、将来の夫となる人の着物も縫っていた。
義兄が寿司屋を開業してからは厨房に入り、ご飯炊きや食器洗いなどの裏方を担い、80歳まで家業を支えてきた。
60年以上働き続けてきた義母の体は悲鳴を上げ始め、80歳から床に臥すようになった。
18日未明、84歳の生涯を閉じた。
何事も控えめでグチひとつこぼさず、ひたすら家族のために生涯をささげた姿は、古き良き日本の女性そのものであった
。
お義母さん、おやすみなさい。
野遊人
PR