昭和初期、日本は現在の中国東北地方に建国された「満州国」に、20年間で500万人の日本人を移住させるという「満州開拓移民推進計画」を打ち立て、これに基づいて満州の地に全国から開拓団が送り込まれた。
最も多かったのが長野県で、全国の約14%を占め、2位の山形県の約2.6倍相当の多さで、収入の低い山村の農家が応募した結果と思われる。
1位 長野県 約 37、800 人
2位 山形県 約 14、200 人
3位 熊本県 約 12、700 人
4位 福島県 約 12、700 人
5位 新潟県 約 12、700 人
「王道楽土」「五族協和」をスローガンに喧伝したキャンペーンが大々的に行われたが、実際は中国人の土地を、安価で強制的に買い上げるなど、スローガンとは程遠いものだった。
昭和20年8月、ソ連の参戦に続き日本の敗戦が決定、満州国に残された日本人は帰国もままならず、命を落とした人、シベリアに抑留された人、家族バラバラになった人など多くの悲劇が生まれた。
満蒙開拓平和記念館は、日中双方を含め、多くの犠牲者を出した満蒙開拓の史実を通じて、平和の尊さを学び、次世代に語り継ぐ施設として3年前にオープンした。
館内は撮影禁止なので写真がないことを了承してください。
満蒙開拓平和記念館のすぐ近くに、中国残留孤児の父と呼ばれ、山崎豊子さんの「大地の子」のモデルとなった、山本慈昭住職が勤めた長岳寺がある。
長岳寺については後日記載する。
野遊人
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