話は変わるが、昨日は職場の美人看護師二人を連れて、葦毛湿原から湖西連峰を歩いてきた。
当社は降水確率40%で、計画を中止しようと考えていたところ、前日になって10%に変わり、予定通り実行。
尾根道から眺められる浜名湖。
2週間前は顔を出していなかったカタクリが顔を出していたが、さほど多くは咲いていない。
このところ寒暖の差が激しいのが原因だろうか。
普門寺峠から普門寺に降りてミツバツツジを見に行く。
花は咲いていたが、今年は花の数が少ない。
普門寺の庭には可愛らしい野草が咲いているが、名前がわからない。
普門寺から薬師岩を通って神石山に行く。
上の写真は薬師岩。
二人とも山ガールにデビューしたばかりで、そろそろ足が悲鳴を上げだしたので、ここから下へ降りることにしたが、その道は下に降りる道ではなく尾根に上がってしまい、普門寺峠まで戻り、普門寺自然道から降りることにした。
下界に降り、夢の子幼稚園前を通り駐車場まで行くと、駐車場は満杯の上、観光バスが1台来ていた。
ボクらが来たときは10台ほど駐車していなかったのに、人気が高いコースであることがうかがえる。
野遊人
二十数年前のこと、当時使用していた透析装置は、日機装社製の個人用透析装置DBB22Bと透析監視装置DCS22Bで、当時の装置は除水スイッチがついていた。
「透析昔話 その5 スイッチの入れ忘れによるトラブル」を参照してください。
透析が終了すると、このスイッチは「切」にして、血液回路を装置から外すように取り決めていた。
いつものように透析用の穿刺針を2本刺して血液回路を接続、血液ポンプをまわして脱血し、除水スイッチと運転スイッチをONにすると、透析液圧計がマイナスに振りきれて警報が発令した。
初めて遭遇した現象、とにかく血液回路を装置から外して、空いている装置に移動。
両サイドのパネルを開いて水漏れの有無を点検するが、水漏れはない。
今となってはどこをどのように点検したか記憶はないが、12時になっても皆目分からず、一旦昼食を食べることにした。
メーカーに報告すれば一発で回答を出してくれるが、なんとしても自分で原因を見つけたい。
除水スイッチOFFで運転にレ手も現象は出ないが、除水スイッチをONにすると再現する。
装置の配管に空気を入れて空気の流れを観察すると、脱ガスチャンバから空気とともに透析液が流れ出ていくことが分かった。
脱ガスチャンバに空気が貯留しない限り、ここから透析液が流れ出ることはない。
原因は脱ガスチャンバ内のフロートに穴が開き(当時はステンレス製のフロート)、フロートが沈み、SV8のスイッチがON状態になっていることが分かった。
これで一件落着だが、このトラブルは32年間でただ一度だけであった。
野遊人
20日から27日、豊橋美術博物館で「模型の魅力展」が開催されている。
ボクの年代の男なら誰しも一度は、プラモデルを製作したことがあると思う。
当然ボクは足を運んできた。
世界的なプラモデルメーカーのタミヤと、映画スターウォーズの製作会社から注文があるほど技術が高い、豊橋が誇るファインモールドのプラモデルと開発資料が展示され、プラモデルの歴史と文化が紹介されている。
館内の展示物は撮影禁止なので、こんな写真しかないのはご了承いただきたい。
売店ではプラモデルや書籍が販売されている。
展示を見て、再びプラモデルを製作したいと気持ちがわいてきた。
60歳でリターンライダーになったボクは、65歳でリターンプラモーになるかも。
野遊人
戦前、国策ですすめられた満蒙開拓。
「満蒙は日本の生命線」「20町歩の大地主になれる」と大陸に動員され、開拓団に参加した人数が最も多かったのは長野県であったことは、一昨日のブログに書いた。
しかし、国策であったにもかかわらず、満蒙開拓に反対した村長が長野県に3人いた。
大下條村(現阿南町)の佐々木忠綱村長は下伊那郡の村長たちの現地調査に参加し「現地人の土地を略奪して開拓を進めている」とし、軍人会や県、国会議員の攻撃に屈せず、最後まで分村(村民を二つに分けてその一つを移民させる)をおこなわなかった。
佐々木忠綱村長の肉声テープが見つかり、満蒙開拓平和記念館に保管されている。
佐々木村長の他にも、平岡村(現天竜村)の熊谷長三郎村長、木島村(現飯山市)の佐藤副次村長も、警察権力などの攻撃と圧力に屈せず、最後まで反対を貫いている。
この3人の村長の行動は、村人の命は村長があずかっているという信念からきているのでしょう。
このような人が本来政治家になるべきと思うが、現金授受の大臣、ゲス不倫議員、そして5人の女性との関係を暴かれた参議院候補者、あきれた面々ばかりだ。
野遊人
1945年5月、長岳寺の住職の山本慈昭さんは、満蒙開拓団(参加者330人)の教師として、51名の生徒と共に渡満。
8月、ソ連軍の侵攻と敗戦により、生きて帰ってきたのは42名、その内生徒はわずか6名。
山本さんはソ連軍に捕まりシベリアへ抑留。
1年7か月後に帰国した山本さんに聞かされたのは、妻と二人の子供は中国で死亡したとの報。
1964年、遺骨収集の許可を得るために訪中した山本さんに、肉親を捜しを求める手紙が届いたが、中国で文化大革命がおき、再度の訪中をすることができなくなった。
死の病で床に伏している開拓団員の一員であった田中与一さんは山本さんを呼んで「阿智の子はみな死んだと言ったが、それは作り話だ。子供たちの命を救おうと中国人に預けた。先生の長女の啓江ちゃんも中国人に預けられた」と衝撃の事実を明かした。
これをきっかけに中国残留孤児と肉親捜しの人生が始まる。
以上が中国残留孤児の父と呼ばれた山本慈昭さんのあらましである。
長岳寺山門
山本慈昭さんの肖像
新田次郎の句碑「木枯らしや いまはた遠き 信玄公火葬塚」
日中友好不戦塚
武田信玄公灰塚供養塔
こんなものも、「これは男のまたぎ石。女のまたぎ石は中関木槌山薬師堂前にあります、両方またげば子供は間違いなく授かります」とある。
「大地の子」をもう一度読み返して、再度長岳寺を訪れてみたい。
野遊人
