巨大津波の破壊力を教訓にして、近いうちに発生するであろう東海地震に備えて、静岡の海岸沿いでは各種対策が講じられている。
浜松の前浜では、海岸線のかさ上げ工事が行われている。
住宅地では避難塔が建設された。
中田島本町浜公園に設置された避難塔。
竜洋町の避難塔。
疑問に思うのは、どちらの避難塔にも扉に鍵がかかっていること。
いたずら防止と思われるが、鍵は何人の人で分担しているのだろうか。
こちらは袋井市が設置した避難用の高台、「湊命山」。
山の上はこのようになっていて、高さ10m、収容人員1300人。
このような構造でよいのだろうか、津波で洗われ、山が崩されそうな気がするが。
しかも砂でできている。
磐田メイツクリニックまでは津波は到達しない予想だが、念のため避難塔が設置してあり、治療中に地震に伴う津波が発生したら、患者さんとスタッフは、屋上に避難するようになっている。
十分な備えををして、後は天命を待つばかりなのか。
野遊人
渥美半島福江の免々田川沿いの堤防道路に、河津桜が満開を迎えたとの報を先日の新聞で知り、我が家から30kmのところに河津桜が多く植えられているのを初めて知った。
早速オミソを連れて行ってきた。
河津 桜のピンクと菜の花の黄色、みごとなコラボレーション。頭上には鯉のぼりが泳いでいる。
川には冬眠から目を覚ました亀が日なたぼっこをしている。
のどかな光景だ。
ここまで来たら、伊良湖岬にある菜の花畑を見ようと車を走らせる。
渥美の大山をバックにパチリ。
遠方の山の頂にあるのは伊良湖ビューホテル。
太平洋岸に出てオミソをパチリ。
お昼になったので、渥美どんぶり街道を展開している「玉川」で大あさりフライ定食(1,210円)を食べに、満員でしばらく待った。
大ぶりのアサリが入った味噌汁も美味しかった。
十分春を満喫してきた野遊人でした。
国立療養所豊橋東病院で出張透析の依頼を受けた患者さんの中で、不幸に不幸を重ねた患者さんがいた。
心不全をおこし、渥美半島から救急車で豊橋東病院に搬送され、治療が奏功して一命を取り留めたものの、長い時間血液の循環が途絶えたため急性腎不全を併発し、透析の依頼を受けた。
カルテの家族歴を見ると、数年前、交通事故で旦那さんと子供さんを失っており、不幸はそれだけにとどまらず、心房細動でも起こしたのだろうか、30歳代の若さにもかかわらず脳梗塞で右麻痺の後遺症が残り、車いすの生活を余儀なくされていた。
年をとり、心臓病と脳血管障害を併発する人は少なからずいるが、30歳代での併発は、少なくともボクの記憶にはない。
何回か透析を行って急性腎不全は解消し、渥美の病院へ転院されたが、今後どのようにして生活していくのだろうかと、気にせずにはおれなかった。
野遊人
昨年、何気なく寄った浜松北区滝沢町の展望台から、河津桜が咲いているのを見かけ、そこまで行くと、地元の方が桜祭りを開催していた。
ツーリング仲間に、込み合う伊豆まで行かなくても、河津桜の花見ができると、ツーリングを呼びかけた。
「ららぽーと磐田」で待ち合わせ、44号線を北上して天竜二俣にある「本田宗一郎ものづくり伝承館」を見学。
天竜二俣は、一代で二輪と四輪の世界的メーカーに作り上げた、本田宗一郎さんの生まれ故郷。
参加した仲間は15人、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキ、ハーレー、BMW、トライアンフとさまざまなバイク終結、「ホンダ車以外は入場料が要りますよ」と冗談を言って入場。
入場料は不要なのです。
初めはホンダも2サイクルだった。 通称赤カブ
スパーカブC100 DOHCエンジン搭載のCB450
輸出向けのCB350エクスポート ご存知CB750
NHK製作の「プロジェクトX 挑戦者たち」のビデオが流れ、ついつい見入ってしまうと仲間たち、他社のバイクに乗っていても、ホンダはすごいな~と本音が出る。
昼食は天竜浜名湖線の二俣駅舎にある「ホームラン軒」のラーメン。
醤油、塩、味噌、トンコツとあり、あっさり系のスープ。
ジャンボラーメンは二玉(980円)、ホームランラーメンは三玉(1150円)だからお値打ち、でも一人で食べないといけない。
駅前に展示してあるSLで戯れるオジさんと、なんと20歳のあいなちゃん(東京からはるばる参加 スズキのGSR250に乗る)
二俣駅を後にして、太平洋展望富士見高原に行くが、あいにく空が霞み、富士山や南アルプスを望むことができなかった。
そして滝沢町の河津桜の花見へ。
今年は開花が早く、桜祭りを昨年より一週は止めたが、すでに葉が出だしていた。
河津枝垂れ桜
記念撮影
新東名高速道路下から湧き出る「滝清水」をボトルに汲んで、ここで解散。
ボクら5人は「あらたまの湯」で汗を流してお別れ。
いよいよ気持ちよくツーリングできる季節となった。
走るぞ~!
野遊人
ボクが勤めていたクリニック豊橋は、昭和56年に開院し、ボクは59年に入職した。
昭和56年当時の全国の透析患者数は42,223人、因みに一昨年の透析患者数は32万人。
昭和59年、東三河に透析施設は豊橋に3件、豊川に2件しかなく、過疎地に住む透析患者さんは豊橋もしくは豊川まで通わなくてはならない。
豊橋駅から東栄町の中心部まで58km、豊根村は75kmもあり、自家用車があれば通えなくはないが、高齢者にとっては容易なことではない。
当時、過疎地の患者さんは、透析を行う施設の近くにアパートを借りて透析に通院し、週末の透析を終えると自宅に帰っていた。
クリニック豊橋の三木院長(現三遠メディメイツ会長)は、この状況を何とかしようと、名古屋大学医学部の同級生であり、東栄病院の院長であった藤堂先生に、透析に携わるスタッフを当院で教育するから、透析室を開設できないかと持ちかけた。
すぐさま看護師2名と透析技士候補1名が派遣され、昭和61年(だったと思う)東栄病院に透析室がオープンした。
2名の看護師の他に、クリニック豊橋で働いていた、東栄町出身の独身の看護師が、透析室のオープンと同時に帰郷した。
実家から透析に通院することができるようになり、透析室の開設に尽力した三木院長や岡田事務長(現三遠メディメイツ相談役)は、患者さんから大変感謝されたことは言うまでもなし、他者を思いやる上司の下で、働くことができたスタッフは幸せ者だと思う。
野遊人
