忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2024/04/25 10:00 |
透析昔話 その30 派遣臨床工学技士No.2

県外の市立病院に臨床工学技士として派遣され、病院に出向くと、公務員の世界(社会というべきか)には驚くことばかりだった。

透析B原液(以下B剤)は、200L のタンクに精製水を入れて、所定量の重曹の粉末を溶解して使用していたが、透析液は薬剤だからと言う理由で、病院の薬剤師が毎回作製していた。


そのこと自体は驚くことではないが、日勤の薬剤師の出勤時間は午前9時と決められており、B剤の作製は9時以降行われる。


昼間の透析治療は午前9時から開始するが、それまでに透析装置を立ち上げておかねばならないので、当然治療開始に間に合わない。


そこでB剤が作製されるまでの間は、昨日の残りのB剤を使用していた。


これには驚愕するばかり、何故なら一晩置いたB剤は、炭酸ガスが抜けてアルカリ化剤の役目を果たさず、これではただの塩水に過ぎない。


薬剤の効能を知り尽くしている薬剤師が、薬効よりも自分たちの勤務時間を優先することには、開いた口が塞がらない。


驚くべき公務員の世界はまだまだあり、追々紹介するが、看護師たちは目の前の患者さんを前にして、一所懸命仕事に取り組んでいることを報告しておく。


野遊人

拍手[4回]

PR

2016/03/07 09:43 | Comments(0) | 臨床工学技士
透析昔話 その29 派遣臨床工学技士No.1

臨床工学技士法が制定されたのは昭和63年4月1日、翌年受験資格を得て免許を取得した。

その翌年であったと思うが、県外の市立病院の院長先生から三木院長に、臨床工学技士がいないので、毎日でなくてもいいから臨床工学技士を派遣してくれないかと要請があり、週に2日行くことになった。


行って驚いたのは、26床の透析室は全て個人用の透析装置ガンブロのAK-10が配置されていたことだ。


と言うのは、愛知県内で、時代遅れのAK-10を使用しているのは1施設だけで、殆どの施設は個人用透析装置よりも多人数用透析液供給装置+透析監視装置の組み合わせの方が多いからだ。


さらにAK-10はバイカーボ仕様になっていたが、B原液注入ポンプはチューブをローリングポンプ(血液ポンプと同じ構造)でしごいて吸引し、しかも定量ポンプ(回転数を固定)という恐ろしい代物だった。


と言うのは、チューブが劣化してくれば吸引量が低下するので、濃度セルで濃度をチェックしながら、原液注入ポンプの回転数を制御する構造でなければならない。


血液ガス分析装置で、それぞれの装置の重炭酸濃度を測定してみると、とんでもなくバラついていた。


これは“どげんかせんといかん”何故なら、バイカーボ透析は重炭酸濃度が命からだ。


そこで院長先生に、多人数用透析液供給装置で透析液を作製して、AK-10に供給してはと提案したが、ボクが派遣されている3年の間に、この提案は日の目を見ることはなかった。


野遊人

拍手[1回]


2016/03/05 09:29 | Comments(0) | 臨床工学技士
透析昔話 その28 不幸に不幸を重ねた患者

国立療養所豊橋東病院で出張透析の依頼を受けた患者さんの中で、不幸に不幸を重ねた患者さんがいた。

心不全をおこし、渥美半島から救急車で豊橋東病院に搬送され、治療が奏功して一命を取り留めたものの、長い時間血液の循環が途絶えたため急性腎不全を併発し、透析の依頼を受けた。

カルテの家族歴を見ると、数年前、交通事故で旦那さんと子供さんを失っており、不幸はそれだけにとどまらず、心房細動でも起こしたのだろうか、30歳代の若さにもかかわらず脳梗塞で右麻痺の後遺症が残り、車いすの生活を余儀なくされていた。

年をとり、心臓病と脳血管障害を併発する人は少なからずいるが、30歳代での併発は、少なくともボクの記憶にはない。

何回か透析を行って急性腎不全は解消し、渥美の病院へ転院されたが、今後どのようにして生活していくのだろうかと、気にせずにはおれなかった。

 

野遊人

拍手[1回]


2016/03/02 06:43 | Comments(0) | 臨床工学技士
透析昔話 その27 過疎地の病院に透析室を開設

ボクが勤めていたクリニック豊橋は、昭和56年に開院し、ボクは59年に入職した。

昭和56年当時の全国の透析患者数は42,223人、因みに一昨年の透析患者数は32万人。


昭和59年、東三河に透析施設は豊橋に3件、豊川に2件しかなく、過疎地に住む透析患者さんは豊橋もしくは豊川まで通わなくてはならない。


豊橋駅から東栄町の中心部まで58km、豊根村は75kmもあり、自家用車があれば通えなくはないが、高齢者にとっては容易なことではない。


当時、過疎地の患者さんは、透析を行う施設の近くにアパートを借りて透析に通院し、週末の透析を終えると自宅に帰っていた。


クリニック豊橋の三木院長(現三遠メディメイツ会長)は、この状況を何とかしようと、名古屋大学医学部の同級生であり、東栄病院の院長であった藤堂先生に、透析に携わるスタッフを当院で教育するから、透析室を開設できないかと持ちかけた。


すぐさま看護師2名と透析技士候補1名が派遣され、昭和61年(だったと思う)東栄病院に透析室がオープンした。


2名の看護師の他に、クリニック豊橋で働いていた、東栄町出身の独身の看護師が、透析室のオープンと同時に帰郷した。


実家から透析に通院することができるようになり、透析室の開設に尽力した三木院長や岡田事務長(現三遠メディメイツ相談役)は、患者さんから大変感謝されたことは言うまでもなし、他者を思いやる上司の下で、働くことができたスタッフは幸せ者だと思う。


野遊人

拍手[2回]


2016/02/29 13:03 | Comments(0) | 臨床工学技士
透析昔話 その26 自殺目的で睡眠薬を多量服薬

忘れもしない昭和60年1月1日、結婚して2度目の正月を家で過ごしていると、職場の上司から電話が入った。

自殺目的で睡眠薬を多量に服薬した人が、〇〇病院に緊急搬送されたから、治療に行ってくれ、必要な器材は業者に運ばせる、との指示が入った。

どのような治療を行うか説明しよう。

DHP(Direct Hemo Perfusion)直訳すると、血液直接潅流、活性炭が入ったカラムに、血液を直接通して、活性炭の吸着力を利用して薬剤を吸着する治療法。


図は旭メディカルのヘモソーバ。

患者さんは理髪店に嫁いだ20代後半から30代前半の
女性。

既に胃洗浄が行われていて、医師に頼んで股静脈に脱血用の針を刺してもらい、腕の静脈に返血用の針を確保していただいた。

通常より抗凝固剤のヘパリンを多めに用いた治療を開始、血流の速度を200ml/mで行った。

3時間ごとに活性炭カラムを交換するので、治療をしている間に次に使用するカラムをプライミングしておく。

何本目のカラムを使用したであろうか、患者さんは覚醒して時折暴れ出すが、医師やスタッフがなだめて落ち着かせる。

患者さんが覚醒したことでボクは一安心、何故なら薬物が体内から除去されたことを物語っているからだ。

医師からもういいでしょうと言われ、治療が終わったのは深夜だったので、カラムは5,6本使用したと思う。

自殺の目的はわからないが、年末に睡眠薬を2本購入して、年が明けた頃服用した模様で、正月を待って決行したことは、強い思いがあるように感じた。

一命を救えた安堵感で、気持ちよく帰宅することができた。

野遊人

拍手[2回]


2016/02/25 13:30 | Comments(2) | 臨床工学技士

<<前のページ | HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]